欧米にはディベートつまり議論の文化があります。
私はこのディベートの能力が日本人に大きく欠けていて、それが日本人の人生の幸せに大きく関わっていると思っています。

 

1、ディベートとは何か

ディベートとは何か。ディベートは、ある物事についてそれぞれの立場から違う意見を出し合うことです。
ディベートの最大の特徴は、ディベートの目的が、結論を出すことではなく多角的に物事を見ることであるところにあります。結論を出すことはできますが、その結論が少しでも真実に近づくために、様々な可能性を探る、それがディベートです。

ディベートの応用例としては、裁判が典型的ですね。
検事と弁護士の立場から、被告が有罪なのかどうか、検事は有罪と仮定し、弁護士は無罪と仮定し、あるいはどこか情状酌量を求める根拠になることはないかなどを提案し、一つの事件を多角的に検証します。

裁判の場合は結論を出しますが、一般的なディベートの場合、結論を出すことよりも、より多くの違った視点での意見が出ることが重要になります。

答えが簡単に出せないような社会問題、倫理問題、政治問題などは絶対に○○というような答えが出しづらいものなので、ディベートをすることで、より深くそのものごとを理解しようとします。

欧米にはこの文化が深く根付いており、ちょっと飲みに行ったり、大学の授業の中であったり、さまざまな場面でディベートが起きることがあります。

最近よくTwitterなどで、議論を交わしている日本人を見ると、かなり攻撃的な意見が出たり、相手が自分の意見に納得しないのを良く思わない人を見かけます。

もしその人たちがディベート文化をよく知っていれば、よりよく物事を理解することができるのに、と思います。

 

2、ディベートの例

トロッコ問題

ディベートで有名なテーマと言えばトロッコ問題です。Wikipediaのトロッコ問題のページによると、トロッコ問題はイギリスの哲学家フィリッパ・フットが作った倫理学の思考実験。

話はこんな感じです。

ブレーキの壊れたトロッコが猛スピードで線路を走っています。トロッコの進む先には5人の作業員がいて、このままではトロッコが5人を弾き殺してしまいます。あなたは線路のルートの切り替えハンドルのそばにいて、ルートを切り替えることができます。しかし切り替えると別のルート上にいる1人が死んでしまいます。あなたはルートを切り替えるべきでしょうか?切り替えないべきでしょうか?

日本人がこの問題を与えられると、うっかり「そんなの死ぬのが少ない方がいいんだから切り替えた方が良い」などと結論をだしてしまう人がいます。

しかしこれはディベートの題材なので結論を出す必要はありません。

  • ブレーキが壊れたのがあなたの責任でないなら、どちらを殺してもあなたの責任ではないのでは?
  • ルートを切り替えることで一人が亡くなれば、それはあなたの責任になるのでは?
  • ルートを切り替えることであなたが命を選抜しているのでは?
  • 人数の問題なのか?
  • もし二つのルートが2人と1人だったら? 100人と1人だったら?
  • もし逆のルートの1人が例えば大統領だったらどうする? 命の重さに違いはあるのか?

など様々な論点があります。命という簡単に結論の出ない倫理問題においてディベートはよく使われます。

これは例えの題材ですが、現実世界にも似たような場面はあるでしょう。救助を行うような仕事をしている人、医療関係者の人、警察の人など命の選択を迫られる職業の人は沢山います。そういう人たちは常にこのような倫理的葛藤にさらされているのではないでしょうか。

 

3、その他のディベートに適したテーマ

現実世界には他にも、答えの簡単に出ない、両面的なトピックが沢山あります。

  • 出生前診断
  • 中絶手術
  • 死刑制度
  • 尊厳死
  • 動物実験

など取り上げる人によって意見の異なる題材が沢山ありますが、日本ではこのような問題も一つの意見を文化の代表としがちです。出る杭は打たれやすい日本、大きな人口を支える社会を円滑に動かすには、全員が同じ考えを持つのが好都合なのかもしれませんが、それでは社会全体の円滑さのために、個人の幸せが犠牲になっているかもしれません。

このようなトピックは答えが明確でないので、ディベートをすることで、どちらの結論に至った場合でも発起する問題を想定できたり、あるいは一つの答えに絞らず中間点や妥協点はないかなどを議論することができます。

ディベートで大切なのはより多くの視点で物事を観察し考えることです。なので、トロッコ問題を見てすぐに答えを決めてしまった人は非常に日本人的で、短絡的な思考に陥っていると言えるのではないでしょうか。命を決める問題に数秒で答えを出してしまって良いのでしょうか?

トロッコ問題では、命を扱う題材であるため、答えを出すのが一筋縄ではいかないというのが分かりやすいですが、それ以外の場面でも日常のあらゆることについて、改めて考え直し、様々な意見や可能性を考慮することで、今までになかった視点が発見できるのではないでしょうか。

 

4、日本人がディベートを苦手とする理由

冒頭に、ディベートの応用例として裁判について書きましたが、日本でも2009年から裁判員制度が始まり、一般人がこのように大事な議論をする必要に迫られることがあります。

NHKのニュース解説サイト、解説委員会によると、

最高裁が行ったアンケートでは、51.2%の人が裁判員になる前には「あまりやりたくなかった」「やりたくなかった」と答え、裁判員制度に参加する場合の心配・支障という項目で「被告人の運命が決まる」に「はい」と答えたひとは76.3%。つまり、裁判員制度という、典型的なディベートの現実世界での応用例に75%以上の人が、被告人の運命を決めること、自分の決断に責任を持つことに不安を感じていることになります。

日本人は決断に責任を持つことが苦手なのではないでしょうか? これは、学校教育での軍隊的な教育、全員で同じことをし、個性を軽視し、平等を重んじる文化に起因しているのではと思います。

私の暮らすヨーロッパでは、人生において、自分に合わせたペースで勉強し、人生を歩み、計画をたてていく文化があります。

例えば一緒に暮らすフラットメイトのチェコ人は、小学校を一年遅くはじめました。それはチェコでは幼少期を長く過ごすことが良しとされているからだそうです。またヨーロッパの多くの国では小学校で留年を認めていて、カリキュラムに着いていけなければもう一度学び直しても良いとされています。

日本での教育は平等を重視しているので、事情が変わります。日本だと義務教育の間は健康上の理由などがない場合入学保留や留年ができません。義務教育を修了するまでは他の生徒との差を感じずに平等に教育の機会を得るためです。

これは両方にそれぞれの理由があり、どちらも素晴らしい考えに基づいて作られた制度だと思います。

しかし、日本での平等教育ゆえに、自分がどうするか決めるという場面が日本人は欧米人に比べて少なく、裁判員制度などでは自分が責任を持ち決断を下すという技能に劣ってしまうのではないでしょうか。

 

5、日本で議論されるべき話題

またこの決断力の低さは、他の日常生活の中にも表れています。私が今日本人が最も激しく議論すべきだと思っているのは労働環境です。

過労死という言葉はKaroshiとしてそのまま英語で使えるくらい日本独自の社会問題として知られています。働きすぎて死ぬというのは日本以外であまり聞きません。

なぜ日本人はそこまで働くのか?

そこで甘えるな、社会人なんだから当然、経済のため、お金のために仕方ないという意見を聞くことにあります。しかし、今の日本の労働社会制度が本当にベストなのでしょうか?

  • 本当にそのような残業が必要なのか
  • 経済を支えるために失われる命があっていいのか
  • お金を稼ぐことが休日を無駄にするだけの価値があるのか
  • お金を貯めなければならない理由は何か
  • 今より経済が衰退することでどのような問題が考えられるか
  • 労働時間が減り経済が衰退すると起きる問題を解決する方法は何か

など様々な疑問点があるはずですが、それを一般の方が話し合うことはあまりされておらず、「仕事だから」で済ませて改善を要求することをせずにいるのではないでしょうか。

ヨーロッパでは様々な国でストライキを目にしたり、給料の交渉を行ったり、上司にも積極的に意見を出したりする労働者を目にします。

ヨーロッパ人は総じて日本人より労働時間が短く、ホリデーも取って、ライフバランス・ワークバランスが取れていますが、そこに至るまでには様々な議論があったことでしょう。家族の在り方が多様であったり、様々な宗教の入り組んだ社会であったり、様々な倫理的・哲学的問題などにも真っ向から対峙し議論しています。

他にも私が日本でもっと議論されるべきだと思うことは

 

家族観

  • 同性カップル
  • 事実婚
  • 離婚
  • 夫婦別姓
  • 子なし夫婦

キャリアプランの在り方

  • 終身雇用制度
  • 新卒採用制度
  • 転職のしやすさ
  • 高齢での進学
  • 休学や休職の自由

教育の制度

  • 奨学金制度(ローン型、給付型)
  • 留学の推進
  • 留学生の受け入れ
  • 教育費の是非
  • 英語教育
  • 教師の質

などディベートに適した社会問題が日本には沢山あります。これらがもっと多く、メディアという一方通行の議論ではなく、ディベートを使ってローカルで生産的に議論されてば良いのにな、と思います。

 

6、ディベートと個人の幸せ

私はこの欧米のディベート文化が、例えば労働環境の良さや、深い倫理問題への考慮、様々な事情への寛容、革新的な社会制度などに繋がっていると思います。

北欧型社会というのが最近日本でももてはやされ、世界の幸福な社会制度のモデルとなっていますが、北欧人は特に活発に議論し、常識をいつも疑い自分たちの価値に挑戦を続けています。その点では意見を言えない、流されがちな日本人と対局であるな、と感じます。

よく留学に行った日本人が、「とにかく自分の意見を多く求められて大変だった」と言います。私も語学学校に始めて行った時には、授業の中で指されてもいないのに自分から発言するということがなかなかできず、先生になぜあなたは発言しないんだ?と何度も言われました。

日本人は単一文化社会に生きており、学校教育などでも和を大切にすることを教え、話し合いを避ける傾向にあります。

しかしそのことが、社会におけるひとつひとつを深く検討する機会を逃す原因となっているのではないでしょうか。

逆に欧米では、ヨーロッパでは様々な国がひしめきあい、アメリカやカナダのような移民国家では違うバックグラウンドを持つ人々がそれぞれの民族や文化の衝突を抱えながら、そんな環境の中で生きています。だからこそ、異なる価値観を目にする機会が多く、違う意見を見聞きしながら成長するため、ディベートという文化が根付いたのではないでしょうか。

適度に働き、適度に遊ぶ。結婚という形に拘らず家族を形成する。ベジタリアン、ヴィーガンなど様々な食事主義に対応する。日本にはないこのような価値観によって幸せを得ている個人は多いでしょう。

私は欧米でこれだけ個人の幸せを追及する文化があるのは、ディベート文化がそれを後押ししていると考えています。

ディベートをすることで、今までの価値観を疑い、常に常識を新しく変えていく。それが本当の幸せを手に入れる方法なのではないでしょうか。

 

7、ディベートのマナー、ボキャブラリー。

では、うまいディベートとは具体的にどうやるのか。

ディベートが白熱すると、つい自分の意見を強く発言し、相手を説得したくなります。しかし、ディベートなので結論を出してしまっては生産性がありません。欧米の人が喧嘩にならず、デリケートな話題を深く議論できるのには、欧米人にディベートマナーが備わっているからだと思います。常に結論を出すことが目的ではないということを忘れずに話すことが大切です。

以前英語を勉強するためにイギリスの語学学校に通っていた時に、よくディベート形式の授業がありました。また、ディベートで使うべき言葉や文章を集中して講義した日もあり、欧米での文化にはディベートが欠かせない物なのだな、と感じました。

それに慣れていなかった私は、何故この人は私の言ってることが理解できないんだ?と思ったり、こんな当たり前の結論が何故納得できないんだ?と思ったりしました。しかしそれではディベートになりません。

とにかく、ディベートは結論を出すことが目的ではないので、議論を続けることに意味があります。つまり、ディベートにおけるマナーは相手に発言を促す言葉を選ぶこと、ディベートでのボキャブラリーは相手の意見に関心を示し、さらに新たな視点を発見する手助けになるような言葉を選ぶことにあります。

例えば、

「なるほど、それは面白い意見ですね。でももしこういう立場に立つと…」

「それはとても説得力があります。しかし私はここに疑問がまだ残り…」

「そういう見方もあるんですね、気づきませんでした。だったら私の○○も…」

「あなたの言う○○というのがもっと深く知りたいです、つまり○○ということですか?」

このように、相手の意見を否定せず、例え自分とは反対意見だったとしても、それも議論を盛り上げる良い要素だとして、さらに議論を深めるための言葉を添えます。大切なのは異なる意見を尊重し、様々な意見を有難がることです。

むしろディベートにおいては、自分の実際の意見と異なったとしても、わざと相手と反対の意見をだし、「でも○○の立場の人はどうなんだ?」といった視点を持つこともあります。そこでも相手を不快に感じさせずに反対意見を出すことがポイントなので、言い方が重要です。

このような相手を肯定する一言を付け加えるだけで、ディベートはより活発化し、興味深い発言が増えていきます。

 

このようなディベートを周りの人と実践し、よりよい価値観を見出していく。そんな文化が日本にも根付き、日本が真に世界で一番幸福な国になってほしいなと思っています。

 

以上、「欧米のディベート文化に見る日本との倫理観の違い」でした。